11月5日の茨城新聞のコラムに下記が掲載されていましたので紹介します。尚、本情報は、小島喜代一(48卒)氏より頂きました。

 

外国に技術支援を仰ぐのが常道の明治時代、日立市の山あいで国産初のモーター開発に挑んだ。日立製作所の創業者・小(お)平(だいら)浪(なみ)平(へい)だ

▼栃木県生まれ。苦学の末、東大工学部を卒業。現在の東京電力に入社し最新鋭の駒橋発電所(山梨県)建設に加わる。だが、発電機はドイツ製、変圧器は米国製、水車はスイス製。運用も外国人頼みだった

▼〈何もかも外国頼りでいいのか〉。そんな思いを抱え鉱山王・久(く)原(はら)房(ふさ)之(の)助(すけ)の誘いで日立鉱山に来ると、業務の傍ら小型モーターの設計・試作を始める。試行錯誤の末、1910年ついにモーターの自力開発に成功。〈世界の日立〉はここに産声を上げる

▼「日本の工業の発展にはそれに用いる機械も国産技術で製作しなくてはならない」(小平語録より要約)

▼外国人労働者の受け入れ拡大法案が今国会に提出される。成立すれば企業の人手不足は当座補えようが、外国人に頼った付けがゆくゆく社会全体の負担となって戻ってこないかどうか。国家百年の計は見えない

▼国産技術のパイオニアは創業と同時に徒弟養成所(現・日立工業専修学校)を開設。就業の少年らに職業訓練と共に一般教育の機会も提供した。人を単なる〈労働力〉などとは見なかったのだろう。(敏)